郷土の生んだ偉人 『田原淳』

中津へ禅海杯サッカーの遠征時、時間の合間を見て中津市役所へ足を運びました。


目的は、田原淳の銅像を見ること。



あまり知られてはいない大分が生んだノーベル賞に最も近かった偉人「田原淳」のお話です。





田原淳(たわらすなお)1873年7月5日~1952年1月19日

大分県国東安岐町の出身 中嶋家に生まれ淳(すなお)と名付けられました。
子供のころより学問に熱心で近くにすむ医師 三浦大明(三浦医院 院長)の自宅に出入り勉強をしてました。
たまたま三浦医院へ来た中津の田原春塘(たはらしゅんとう)医師の目にこの学問に熱心な淳が目に留まります。
偶然にも田原春塘と中嶋家は親戚でもあり、娘しかいなく、医師としての跡取りのない田原春塘は中嶋家へ出向き、淳を養子として迎えたいことを切望しました。
淳の両親も彼の将来と才能を考えて同意し、淳は田原家への養子となったわけです。
 その後、春塘のすすめで淳は東京へ上京し、東京英語学校、ドイツ学協会学校で語学を学び、東京帝国大学医科大学第一高等学校へ入学、そして東京帝国大学医科大学へと進学した。
卒業後、中津の医院で父とともに医師として働きだしたのですが、淳の学問へのさらなる探究心そしてドイツへの留学の気持ちは高まるばかりでした。
そんな胸中を察した義父春塘は田畑を売り払い淳の留学資金として提供したのでした。
 明治36年。田原はドイツのベルリン大学へ旅立ちました。
ベルリン大学で臨床研修をしていた淳は次第に物足りなさを感じていくのでした。
私はドイツへ臨床の研修にきたのではないと。益々学問の追及に憧れていくのでした。そんなとき、友人の紹介でマールブルク大学のアショフ教授の存在を知るのでした。
彼のもとでなら、自分の期待できる勉強ができるに違いないと、熱烈な手紙をショフ教授へ送ったのです。その手紙に心打たれたショフ教授より、招待の手紙が届き、以後淳はアショフ教授のもとで日夜を問わずに研究に励むのでした。
その研究室には深夜に幽霊が出ると噂が立つほど、寝る間を惜しんでの研究でした。
 そこでの2年半の研究で、田原は心臓の中に刺激伝導系という電気の流れる通路が存在することを発見したのでした。
当時世界では心臓の収縮を調節する刺激経路が存在するなどとは誰も気づいていませんでした。
その経路の一つヒス束には「田原の結節」という名前まで付けられました。
心臓の一部に我が郷土が輩出した偉人の名前が付けられているわけです。
 田原はそれをドイツ語で論文にまとめ発表後、明治39年日本へ帰国したのでした。
明治41年淳は京都帝国大学福岡医科大学の病理学教授へ就任した。
その後も研究者、教育者として活躍し、昭和27年亡くなられました。
 一方、田原がドイツへ留学した翌年明治37年に日露戦争が勃発してます。
日本はイギリスと同盟国であり、ドイツとロシアは敵国でありました。
ドイツでの生活は差別の目も向けられ決して平穏なものではありませんでしたが、研究者としての熱心さに次第に周囲より尊敬の眼差しを受けるようになり、アショフの献身的なサポートにより研究を遂行できることができたのです。
また、昭和16年~20年は太平洋戦争でもありました。淳の長男・駿也も医師となったのですが、軍医を志願し昭和17年、31歳の若さで亡くなっております。
 田原の研究論文「哺乳動物心臓の刺激伝導系」はノーベル賞を超えるほどの人類へ大きく寄与した研究でした。
のちに、不整脈やペースメーカーの発達、心電図など、心臓疾患の治療に大きく貢献した第一歩であったわけですから。
しかし、くしくも日露戦争の最中であり、田原の業績は陽の目を浴びることはありませんでした。当然、現代では世界中の誰もがノーベル賞に値すると確信しています。
立派な研究者でありましたが、戦争に翻弄された人生でもあったわけですね。



 これほどの人が郷土、大分にいたわけです。



中津市役所にある「田原淳」の銅像
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著者、島田教授よりいただいた田原の論文の本
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ご興味のある方は「田原淳の生涯」 考古堂 ¥4600
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しかし、このような重厚な本が発行されても、一般の人々とりわけ子供たちに田原淳の名前が知られていかないことも事実でした。

そこで2006年私は島田先生へ子供たちが読める漫画本を作成することを嘆願したのでした。

これほどの郷土の偉人を次世代の子供たちへ伝えなけいけないと。

それには漫画本しかないのではと、


その結果・・・・・梓書院 マンガ「ペースメーカーの父 田原淳」¥700
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大分県内の小中学校の図書館にはおいてあるはずですよ。



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この最後の文面。


「中津市に貸しができたな!!」 って、いい気分で試合に戻りました。



追伸

しかし、なぜ、これほどの業績で田原淳は有名にならなかったのか?

それは、戦争と重なってせいもあるのですが、ある意味田原の人生は順風満帆すぎたのかもしれません。

漫画本を作成するにあたり、その辺が一番苦慮されたようです。
by moriken1103 | 2012-08-21 12:30 | 学習コーナー
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